無伴奏(2)
晩夏の路上に風化する命を見つけた。
還る土がない都会で、それはまるでモダンアートの墓標のように見えた。
芸術作品がたどる運命はさまざまだ。風化や戦禍を耐え抜くものもあれば、日の目を見ずに埋もれるものもある。文豪カフカが書き記した作品の多くは、作者自身の手によって破棄されたらしい。
そういう消失作品たちは「ロマンという名の幻影」でひとの心を惹きつけるけれど、ローマ人の豊かな想像力をもってしても、消えたものはもとに戻らない。
いっぽうでまた、作家が筆を置いても作品が完結しない、というやっかいな芸術もある。音楽や舞踏などの分野がそれで、作品とされているのは一種の設計図に過ぎず、いわば料理人が記したレシピみたいなもの。それを鑑賞可能な形に持っていくには、さらなる人の手が必要で、しかもおなじ味は二度と再現できない。
なぜかといえば、設計図(と、それをもとに表現を行う人間)が、はなはだ不完全だから。というより、芸術とはもともと複製ができないものなのだ。
レオナルドが教会の食堂に壁画を描いた、その二百数十年後。ミラノから五百キロほど離れた北の街で、若い作曲家が長大な作品を書き上げた。といっても譜面のページ数はさほど多くない。それはただひとつの楽器と、ただひとりの奏者のための独奏曲集だったからだ。
ヨハン・セバスティアン・バッハ作「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」である。
歴史的に重要な作品なので、背景や成り立ちはよく知られている。もし知らなくてもネット上の扉をいくつかノックすれば、さいきんの若手女流のCDですら、もう何十年も聴き続けている気になれるだろう。
ただし演奏史については、せいぜいここ百年のことしか分からない。それ以前には楽器が震わせた空気、つまり「音」を記録する方法が無かったためだ。
じっさい、バッハがこの曲を完成させて、まもなく三百年になろうとしているのだが、そのうち三分の二にあたる年代の演奏、作品の「完成形」を知る手だてはまったくない。これはレオナルドの壁画より、ずっと深刻なダメージではないか。
まあそうは言っても、この傑作の譜面が朽ちて消えたわけではない。昔の音楽家たちがその譜面でどんな演奏をしていたのか、それを知ることができないというだけのことだ。
それに今こうしている間にも、世界中のどこかで誰かが必ずこの楽曲を弾いている。すなわち作品には常に新しい命が吹き込まれ、再創造されている。消える音あれば現れる音あり。そこが音楽の素晴らしいところである。
それにしても、いったいなぜ「無伴奏」なのか。
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