猫の日々
猛暑が続くなか、猫はクーラーと扇風機を独り占めしている。
その生産性とあまりに無縁の様子が、なんだか癇に障ったので、隙をみてその場所に寝転んで読書をする。戻ってきた猫はあきらかに不服そうだが、家のなかで二番目に快適な場所を見つけて、とりあえずそこに落ち着いた。適当なところで譲ってやらないと、たぶんまた家出をしてしまうだろう。
そんなとき、猫の顔には「嫌々」とか「不承不承」の文字がありありと読める。これが犬だったら「渋々」になるところ、おなじ不満を表すにしても、総画数が多い字面は猫の猫たる所以である。
そうやって気分を表明するにも違いがある猫と犬だが、妙なところで共通点がある。そう、彼らはどちらも、人間とおなじような方法での体温調節ができないのだ。人間は体毛の大部分を失ったため、汗腺が発達し、だから暑いときには汗をかいて、その際に気化熱が奪われることにより、体温を下げる自律機能を備えている。
いっぽう、猫や犬はそういう役目を担う汗腺を(事実上)持っていない。だから犬はだらんと伸ばした舌に過呼吸の風を当てることで体温を下げ、猫は毛繕いで保湿し、そのうえでなるべく無駄な運動を避け、体温の上昇を防いでいる、のだそうだ。
どういう進化の道筋をたどるとそうなるのか、これはちょっと面白い話だと思うのだが、とりあえず、いちばん快適そうなのは「床に寝転んで伸びをしたまま寝ている猫」に違いない。
さて、猫の憩いの場所を奪うのにも飽きたし、日中の「凪ぎの時間」も終わって、すこし風が出てきた。そこで毛だらけの服にブラシをかけて、外出する。ちょうど探したい資料もあったので、行き先は古本や街。
勤め帰りの客で混むまだ少し前、怒気を含んだような外の空気と、ガラス戸いちまいで仕切られた店内は、まるで棚を埋め尽くした本が冷媒の役目を果たしているように思え、しかもかぐわしい古インクの匂いに満ちている。なんて快適、と思って店内を見わたすと、こんな猛暑にもかかわらず出かけてくる人はけっこう多い。
古本やが面白いのは、客を選別しているところである。偏りを持たせた書籍の背表紙と、奥に構える店主の目配りが、二重のフィルターの役目を果たして、誤って侵入した異物を効率よく排除する。排除される側にしてみれば居心地が悪く、だが濾過されずに残るひとたちには、つかの間のパラダイスが約束される。
そういう排他的な商いは、古カメラの世界にもよくあった。舶来を扱う専門店だけでなく、街角の写真やさんでも、なにがしか仕掛けられたフィルターが機能している店は多かった。
でも残念ながら、そのしきたりはカメラと人間の両方で滅亡しつつあって、今では「本や」ならぬ「ブックストア」みたいなカメラ店ばかり目につく。商品を選ばず、誰にでも愛想がよく、写真趣味に偏見も定見も持たない店員。愛想のよい、失敗の少ない、魅力の長続きしないカメラ。そういうものしか生き残れない、のではなく、皆がそういうものを望み、それに異を唱える声が少なかったから、そうなったのだ。
猫と過ごしていると、なぜだか世の中のしくみを、どこか冷ややかな目で見るようになる。
欲しい本を見つけた帰り際、いつもの喫茶店の上席を首尾よく引き当て、名物のウィンナ珈琲、ではなく、冷えたビールのコップを傾ける。汗をかきつつ家に戻れば、特等席は猫に奪われているのだから、せめてこの場所は他人に譲るまい。
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制作協力 脊山麻理子
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