ディストーション(7)
「ディストーション」とは、否定的ニュアンスをよく含む言葉である。それは反意語をつくる接頭辞dis-の語感にも一因があるし、「歪曲」という、これまた字面のよろしくない訳語があてられたことも影響している、ような気がする。
でも写真とはまったく別のジャンルでは、ディストーションが表現の手段として認知されている。真空管の特性を活かしたディストーション(電気的に附加する歪み)はロックギターと切っても切れない間柄だし、ヴァイオリンやチェロなど擦弦楽器のナマ音も「歪みだらけ」といえばそうである。だからジミヘンのストラトが繋がれるのはマーシャルアンプでなければならず、デュプレがエルガーを弾くためには名器ダヴィドフが必要だった。
音楽家にとっての歪みとは、聴き手の心にダイレクトに訴えかける手段でもある。妬ましくも羨ましい話だが、写真家はそうはいかない。
写真レンズにおけるディストーションが嫌われがちなのは、写真という視覚メディアがおもに「記録の手段」として発達してきたためだろう。そしてこのメディアの歴史は、常に光学という名の学問に支えられてきた。
だから航空測量や建築写真などの用途限定で、歪みをほぼ完全に補正したレンズがつくられることはあっても、楽器のように歪みを「表現の手段」として使うレンズは生まれてこなかった。レンズに残る歪みとは、開発時間や製造コスト、他の収差とのバランス、実用性、そしてカメラ実装時の制限に対する妥協の産物なのだ。
僕がディストーションを嫌うのは、そういう道具を受け入れた自分への憤りがあるのかもしれない。
だがしかし。光学とデジタル技術の融合でディストーションが克服されようという今になって、いやたぶんそういう今だからこそ、僕は歪みの残るレンズにも愛を感じるようになってきた。いつもの天の邪鬼、とえばそうなのだけど、歪みを上手く誤魔化して、じゃなくて逆手にとって表現に結びつける。そういう楽器のような使い方はできないものだろうか?
などとアタマを捻ってみても出てくるのはどうせサル知恵、たいした答えは出ない。「そんな些末なことで悩むなら、写真にとってもっと大切なことを考えるべきだ」それはその通り。僅かな歪みで価値を決定的に減じる写真なんて、建築や航空測量写真以外ではほとんど見あたらない。
でも、その建築の分野で二十世紀の大家として知られるミース・ファン・デル・ローエは、こんなことを言っている。God is in the details. 神は細部に宿り給う、と。これは「細部を疎かにするな」という戒めでもあり、また「総体は細部の積み重ねによってつくられる」という金言でもある。
ほんの少しの歪みを気にするか。または「そんなのどうだっていい」と達観するか。どうせ悩んでも悟れないのなら、とことん悩もうと思うのであった。(この項終わり)
制作協力:クニトウマユミ
附記:ディストーションはレンズの重要な性質なので、本来はメーカーが開示すべきものである。ところがこれを実践しているメーカーはほとんど無い。例外的なのがライカとツァイスで、特にライカは全現行レンズのデータを「Relative Distortion(総体歪曲=歪みの発生率を像高との関連で表したグラフ)」「Effective Distortion(実効歪曲=実際の画面がどう歪むかを表した図:これがひじょうに分かりやすい)」の二項目で提供している。データを掲載したカタログは公式サイトからPDF形式でダウンロード可能。
▲写真「浮き桟橋、午後6時」:川面に揺れる桟橋には用途不明の道具が放置されていた。デッキと交わる直線がビミョーに歪んでいるのが分かるだろうか。こういう場面は樽形の歪曲がやはり眼に優しい。
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