docomo Pro Series L-03C(9)

docomo L-03C / Pentax 3X Optical Zoom 6.3-18.9mm F3.1-5.6 / 6.3mm F7.8 1/190sec. ISO64 / (C) Keita NAKAYAMA
「成功は自分の手柄、失敗は他人の落ち度」
どの会社にもいそうな、部下に嫌われる上司の話かって? いや、これは僕自身のこと。ただし相手は人間ではなく、カメラである。
写真は成功と失敗の積み重ねだ。人間がやることはすべてそうなのだが、写真のように道具への依存度が高い行為では、失敗率がかくべつに高い。昔の写真家は一枚の作品を撮るために、シャッターを何度も切ったものだった。
今はそういうひとも少なくなったけれど、これは道具が一方的に進歩したおかげである。いや無駄に撮られる写真はむしろ増えているのだが、それは撮影そのものにお金がかからなくなって、ぽいぽい気軽に捨てられるからだ。考えなしに撮った写真は、即ゴミ箱送り。カメラがカシコクなるにつれ、撮り手は愚者になっていく。
もちろん、失敗写真が消えてなくなったわけではない。カメラがどれほど進歩しようと、撮るのは人間。操作手順を忘れたり間違えたりはしょっちゅうだ。僕なんか、いまだにライカにレンズキャップをつけたまま構えて、被写体に注意されたりしている。うむ。
ことほどさように、人間はつまらないミスを犯す。機械技術の進歩とは、そういう失敗を根絶やしにするための、エンジニアの戦いの歴史でもあるのだった。
さて。そこでようやく、L-03Cである。このカメラ(そういえばケータイの機能も付いていたっけ)もまた、使い手の凡庸なミスを防ぐ仕掛けを満載している。というより、これは基本的にフルオートで撮ることを前提にしたカメラで、言ってみれば「ハナっから人間を信用していない」。レンズキャップなんか、起動に同期して開閉するバリアだし。
まあ、おかげで普通に使えばフツーに見栄えのよい写真が撮れるのだが、もちろんそれで済まされるほど写真はアマくない。写真は表現の手段であって、カメラはそれを視角化する道具。そして人間の表現とは、ひどく曖昧なものだからだ。

docomo L-03C / Pentax 3X Optical Zoom 6.3-18.9mm F3.1-5.6 / 6.3mm F7.8 1/190sec. ISO64 / (C) Keita NAKAYAMA
曖昧さの最たるものは、露出である。これには絶対の正解がない。いやカメラは常に正しい答えを出しているのだが、それは「適正露出」という、いわば物差しの目盛りみたいなもの。その目盛りの数値からとっ外れた写真も、撮り手が「これが私のイメージです」と言い張るなら、それで成功と見なされる。不条理だが、ブンガクは数式で解き明かせないものなのだ。
L-03Cの露出オートは、多分割測光とプログラムAEの組み合わせが基本。ニコンがFAで先鞭をつけた方式の、二十八年目の進化形ということだが、これが実によく当たる。多分割(ニコン流にいえば「マルチパターン」)とプログラムのコンビは、文学の問題を数学で解くようなところがあって、まあフラクタル理論のようなものである。などと書いてる人間にも意味はよく分かってないので、深く考えないように。
その多分割測光、フィルム時代には「カメラが勝手に判断する」と忌避する向きもあったが、デジタル時代の今では完全に主流だ。イメージャそのもので測光する合理性(測光パターンは自由に設定できる)に加え、逆光での露出もずいぶん安定した。カメラ側の判断をその場でチェックできるので不安もない。フィルム時代のようなスリルは失われたけれど、文句をいうひとはいないだろう。
測光は他に中央重点とスポットを、AEはシーン別モードも積んでいる。シャッタースピード優先AEの非搭載は一部で不評のようだが、これは使い方でカバーできる。また絞り優先AEについては、もしあってもたいして役に立たない。L-03Cの絞りはコンデジで一般的なNDフィルターなので、光束の変化による画面効果は期待できないからだ。

docomo L-03C / Pentax 3X Optical Zoom 6.3-18.9mm F3.1-5.6 / 9.4mm F3.8 1/250sec. ISO64 / (C) Keita NAKAYAMA
L-03Cを使いはじめて一カ月。その間のショット数は400に満たず、機能や画質の見極めはまだできていない。そこで大まかな印象を記せば、これは撮り手の思いによく応えてくれるカメラだ。すくなくとも「こう撮りたい」という意図を大外しすることは。ほとんどないと言える。
そういうカメラを使って「俺、写真ウマいじゃん」と思えるひとは、たぶん幸せだ。機械が相手なら、成功を横取りしたところで、誰も眉をひそめない。僕もそういう幸せな勘違いに浸ることは、よくある。
ただし、失敗のない道具というのは、時としてもの凄くつまらないものである。いやそもそも、多分割測光で当たりが出まくるのは、自分の写真が類型化していることの裏返しではないか、という気もする。この種の自動露出には、数万ショットという作例をパターン解析したデータが反映されているからだ。
「当たりは引きたいけれど、他人といっしょは嫌だ」。次回はそういう天の邪鬼な写真機好きのために、もっとひと気のない獣道に分け入ってみることにしよう。
(この項続く)
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▲photo01:「凪の音」。こういう情景を好むひとにとって、L-03Cは満足度の高いカメラだと思う。すべてカメラ任せだが露出のバランスはひじょうにいい。空のハイライトのトーンの残し方もウマい。もっと大きい画像で観察すればデジタル処理の粗も見えてくるけれど、まあ赦せるレベルだ。
レンズ描写も素直だが、この焦点距離(フルサイズ換算約35ミリの広角端)にはディストーションがある。風景写真のセオリーでは「水平線は画面中央に置く」とされており、それに従えば歪曲は完全に消失する。でも僕は風景写真の門外漢なので、この画像はあっさり後処理で修正を入れた。
▲photo02:「海まで五十歩」。海辺の道路をくぐるトンネルで、逞しい青年とすれ違った。ポケットからカメラを取り出し、振り向いて構えるまでの時間の長く感じたこと。L-03Cは携帯電話でもあるので、カメラを起動する前にキーロックを解除しなければならないのだ。ぎりぎりで間に合ったが、カメラ位置はもう少し下げるべきだった。
カメラの設定は上の写真とおなじ。いつものネガカラーなら暗部の階調をもっと出すだろう。樽型(正確には「ごくわずかな陣笠が混じった樽」)のディストーションはやはり目障りで、修正もそれなりに手間がかかる。ここでは無補正とした。
▲photo03:「青い影」のタイトルを浮かべると、頭にハモンドM102のイントロが響く。それはまあ良いとして、続く歌はなぜかジョー・コッカー。しかもいつまでも鳴り止まない。困ったものだ。
その曲の原題”A Whiter Shade of Pale”については、あちこちで解題されている。問題は”Shade”をどう取るか、ということなのだが、英国人の心情を慮るに「仄かな幻影」くらいの解釈が妥当ではないか。
写真でも、晴天の屋外で影が青味を帯びることがある。これはホワイトバランスを日照部分(直射光)に合致させると、日陰の部分(間接光)の色温度が相対的に高くなるためだ。L-03CのAWBはその傾向が強いのだが、発色は後処理で調整が利く。撮影現場では露出設定に専念すべきだろう。
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