Happiness Between the Sea and Sky
晴れ渡った午後に、海に出かけた。
迎えに来てくれた二人の脚は、パタパタと可愛い音を立てて走る、年代物のVWタイプ2。おなじ国でおなじ時代につくられたカメラには馴染みがあるけれど、クルマには縁がなかったので、ちょっと感動。それが今も現役で、しかもシートベルト無しで車検に通ると聞いて、さらに感動。
でも、検問で咎められたら? 「もともと付いてません」のひと言で放免されるそうだ。なんか、ザル法だなあ。
家から海辺までは十分ちょっと。けっこう近いのに、出かけるのは十年ぶりくらいだ。なぜ足が向かなかったのかといえば、そこにある海が僕のイメージとは違うから。ここには海と陸地の境い目にあるべき砂浜がなく、ただ延々とコンクリートの護岸が続くだけなのだ。
境い目なしでいきなり繋がるのは、デジタル的とも言える。僕はやはりアナログ的にグラデーションで繋がる方が落ち着くので、背景の水平線は、適当にボカすことにした。
でもそんなことに思い入れのない二人は、視界を遮るもののないこの場所の開放感を、じゅうぶんに満喫している。彼らの他愛のないおしゃべりを聞いていて、ふと子供の頃に犬を連れて浜辺を歩いたことを思い出す。
いや「他愛のない」という言葉は、じっさいまったく、適切ではない。彼ら二人がいるだけで、この殺風景な海辺にも、通りがかりのひとに貰ってもらいたくなるような「愛」を感じるからだ。とりたてて意味のないおしゃべりにしても、たぶんそれは波の音や潮の香りよりも、ひとの心を幸せにするものだ。
それにこの場合の「他愛」は誤りで、正しくは「たわい」なんだそうだ。日本語によくある、誤用が普及した例ということだが、まあ字面がいいから許せるか。
幸福とは、なにかに充足した状態を指すのだと思う。お金で買えるモノに囲まれて、そこに幸せを感じるひともいれば、ただ広々とした場所で手足を伸ばすだけで、満ち足りた気分に浸れるひとたちもいる。どちらの幸福度が高いかは、この際たいした問題じゃあない。当人以外の人間にとって重要なのは、その気分をこちらに分けてもらえるかどうか、ではないか。
だとすれば、この日の午後の空と海の間には、「他愛」がいっぱいに満ちあふれていた。その笑顔を撮らせてもらえただけで、僕もじゅうぶん幸せになれたのだから、写真の趣味とはつくづく「たわいのないもの」である。──Why not?
Special Thanks to Mayumi & Yukitaka.
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