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祈り人 : メイキングセンス。by 中山慶太

祈り人

2011-03-20 | 東京レトロフォーカス別室

docomo L-03C / Pentax 3X Optical Zoom 6.3-18.9mm F3.1-5.6 /  6.3mm F7.8 1/500sec. ISO64  / (C)  Keita NAKAYAMA

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停電は予告通りにはじまった。
二度目のこの日は、夜の七時から十時の間。
停電が「はじまる」というのも、なんだかしっくりこないのだが、物事があらかじめ告げられたとおりに進んだのだから、それで間違いではない。元タレントの知事は怒っていたけれど、誰かを責めるのにテレビを呼ぶのは、間違いだ。
用意しておいた蝋燭を灯し、光を確保する。部屋のようすは分かるものの、読書にはぜんぜん足りない。
他にすることがないので、カメラを起動して炎にレンズを向ける。ちょうど良い露出値を探しながら十数カット。それだけで電池の目盛りがひとつ欠け、撮りたい気持ちはもっと目減りした。

普段なにごともないときは、まったく意識しないけれど、僕らの生活は、あまりに多くを電気に頼っている。最初の停電に路上で立ち話をしたご婦人は、家にいると寒いので散歩に出た、と言っていた。暖房をぜんぶ電化して、石油ストーブを手配しようにも、肝心の灯油が手に入らない。僕の事情といっしょである。
たしかに不便ではあるけれど、不便の二文字で済まされるうちは、まだましだ。おなじ空の向こうでは、飢えや凍死の文字がかつてない現実感を帯びて、大勢のひとたちを苛んでいる。

薄暗い部屋で、無風に揺らぐ炎をじっと眺めていたら、いぜんにもそんな光を眺めたことを思い出した。あれは旅先で立ち寄った修道院の廃墟で、なぜそこを訪ねたかといえば、好きな映画のロケに使われたからだ。

docomo L-03C / Pentax 3X Optical Zoom 6.3-18.9mm F3.1-5.6 /  13.1mm F4.6 1/90sec. ISO640  / (C)  Keita NAKAYAMA

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初冬の夕暮れ。屋根が落ちて壁だけになった遺構を訪れるひともなく、少し離れた丘の上に建つ礼拝堂もひと気がない。にもかかわらずその祭壇には花が飾られ、たくさんの蝋燭が灯されていた。
いったい誰が献花し、誰が灯りを守っているのか。話を聴こうと待ってみたけれど、何も起きなかった。

数日前、その国に住む友人からメールが届いた。あちらでは皆がニュースに驚き、心を痛め、そして日本人の落ち着いた対応に感銘を受けている、という。そういう海外からの談話はネットでもよく見かける。でも、僕じしんに限って言えば、落ち着いていたのではなく「ただ呆然として」いたのである。
いやそれは僕だけではなく、あの日あの時に慌ててスイッチを入れたテレビの画面で、巨大な水の塊が地面を覆っていく映像を、現在進行形の事象として観てしまったひとたちの多くが、たぶんそういう状態だったはずだ。最新の技術が反映された空撮映像は、ほとんど「音入れ」を待つ映画の一部分のように見えた。

いっぽうで、それから後に繰り返し流される被災者カメラの映像と、その被災地のようすを伝えるニュースには、言葉にできないほど重いものがある。それはこの災厄に直接間接の影響を受けたひとも、そうでないひとも、日本人であれば誰もが直視し、受け入れざるを得ない事実の重みに違いない。原発事故をはじめとする二次災害も、この先に長く尾を引くだろう。

大地が溜めた力を放出するとき、人間はただ無力だ。そしてその猛威を伝える映像は、趣味としての写真を吹き飛ばしてしまった。重すぎる現実の前に、軽さや虚構は価値を失ったのだ。

docomo L-03C / Pentax 3X Optical Zoom 6.3-18.9mm F3.1-5.6 /  7.7mm F3.4 1/640sec. ISO64  / (C)  Keita NAKAYAMA

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一度目の停電が「はじまった」ときも、川べりを散歩しながらカメラを取り出し、憂いを湛えた空にレンズを向けることが、どうにも後ろめたかった。そのおなじ空の下で苦しむひとたちの姿が、どうやっても頭から離れない。もう二度と写真を楽しんで撮ることはできないのでは、と思えたほどである。

でも、今こうして気を取り直せば、被災地の現実が過酷でも、それを支援するひとたちが皆、肩を落とし心を暗くしてしまってはいけないと思う。この国が少しでも早く活力を取り戻すこと、それには消費生活のリズムを正常に戻すことが必要だからだ。
僕のように理屈っぽく物を選ぶのでも、理屈抜きに勢いでお金を使うのでも、どっちでも構わない。もっと賢い買い物を、などと言う気もない。何かが起きたときに、当たり前のものが当たり前に手に入らなくなることは、もう誰もが身にしみているはずだから。

ひどく勝手な言い分と承知で書けば、日本人がこういう状況に冷静さを失わない民族であるとしたら、それは「祈るべき神を持たぬがゆえ」のしぶとさだと思う。運命を定めと受け入れ、救済を他者に委ねる心、あの礼拝堂の灯し火と引き換えに、僕らは災いに抗う力を獲得したのだ。

停電の部屋で灯りを見つめていたら、もうひとつ思い出すことがあった。それは70年代にもてはやされた、あるファミリーカメラの売り文句である。
「ロウソクの光で撮れる」というそのカメラが、いったいどんな意味を持つのか。長いあいだよく分からずにいたのだが、手元の液晶画面を見て納得した。つまりそれは、人間は後戻りをすべきではないということだ。希望は未来にしか無いのだから。

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