西暦二〇一二年の夏休み(5)
フィルムカメラを使う日は、いつも夏休み気分だ。
なにがそう思わせるのかというと、それは自分の身体を使って遊ぶ感覚だろう。近所の川に釣りに行くノリで、使い古した道具を片手に履き古したサンダルをつっかけて、河原の土手を駆け下りていくあの感じ。
出がけに冷蔵庫から「練り餌」ならぬフィルムを取り出すところも、似ているといえばそうである。
もちろん、全部がぜんぶ、おんなじわけではない。糸を垂らせば心が開放される釣りと違って、フィルムはカメラに詰めたその瞬間から、それが現像によって可視化されるまでの間、心が安らぐ暇(いとま)がないからだ。慣れ親しんだ操作や手順を繰り返していても、アガリに確信が持てたためしはないし、いつもどこかで致命的なミスをしている気がする。
そういう不安もあって、この日の撮影はいつもより設定を頻繁に変えた。カメラ操作の設定ではなく、撮影の状況設定のことだ。使ったフィルムはカメラ2台で合計3本弱。アガリを見るとワンシチュエーションにつきおおむね5コマ。デジタルなら間違いなく倍以上を撮っただろう。
場所を変えてちょこっと撮って、の繰り返しは、およそ夏の浜辺にそぐわないビジーさだが、シャッターを切っていない間は泡の出る水分の補給に努めるという、まあ例によって例のごとくのペースである。
愉しくないかといえば、そんなことはない。というより撮影は愉しくて仕方がないのだけど、その愉しさのなかにある小さな不安こそ、実は遠い夏休みにつながる記憶の正体かもしれない。それは引き出しの奥に入れたまま手つかずの宿題のように、撮影の間中、ずっと心の片隅にあり続けるものだ。
でも、そうやって不安に駆られてレリーズし続けることこそが、たぶんフィルム写真の、いや写真という趣味の本質なんじゃないかと思う。その場で結果を確認して安心してしまうと、お楽しみもそこまで。写真のアガリも夏休みの宿題も、醍醐味を味わうなら先延ばしに限るのである。
(この項終わり)
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▲photo01:浜辺での撮影というと思い出すのが昔の映画。あの「8・1/2」(はっかにぶんのいち)のラストシーンみたいな、幻想的なパレードが撮れたらどんなに素敵だろうと思う。もちろんそんな予算もチャンスも無いのだけど、背景に人間のドラマを感じさせる状況を探して撮ってみた。
もし映画監督のようにメガホン片手にエキストラを自由に配置できたら、この背景ももっと良くなっただろうか? いやいや偶然がつくるバランスには、完成度とは別の何かがある。それを超えられるのはフェリーニのような天才だけである。お気に入りのいちまい。
▲photo02:アカレッテとシュナイダー・テレクセナー。例によって「境い目の見えないファインダーによる」微妙なフレーミング。画質はポラロイド並みに見えるが、ちゃんと測距してきちんとハレ切りすればそれなりに写る。でもこれくらい旧い機材を使うなら、こういう腰砕けの描写狙いも面白いんじゃないか。
▲photo03:真夏の浜辺の午後1時。被写体の周囲はすべて強い光で埋まるという、旧いレンズと中央重点測光のカメラに厳しい条件。この日の露出は自分の服(濃いめのジーパン)で取り、その出た目を基準に補正を加えて撮っている。3本使ったレンズはすべてフード未装着。ただし最低限のコントラストが出るよう、ハレ具合にはけっこう気を遣った(アカレッテの撮影分は除く)。それと被写体と背景の露出差にもいつも以上に注意している。
このカットも通常なら背景が丸っと白飛びするか、または人物がどっ潰れの条件。そうならなかったのはロケサービス経由で大型ストロボを手配した、のではなくて撮影者が白壁を背負っているため。おかげで肌のトーンも綺麗に出ているけれど、全体にどことなく「つくりものっぽさ」も漂う。天然光100%に違いはないのだが、こういうつくり込みはどうなのか、アガリを見てけっこう悩むのであった。
制作協力:脊山麻理子
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