Three Fables(3)
目覚めよと呼ぶ声あり。
「やっほー、そろそろ起きろ」誰かが僕の肩を揺すっている。
そっと目をひらくと、いちめんの波がうちよせる海が目に入った。いや、あれは空と雲だ。
「もうじきに陽が沈むよ。シャツいちまいだと、風邪ひくぞ」
息をおおきく吸い込んで、僕は声の主に尋ねた。
「あの雲、動いてるのかな」
「なんだか深い海から浮かんできたみたい」あきれた様子の声が答えた。
「雲は流れるのが仕事。潜水夫さんがのんびり潜ってるあいだも、みんな休みなく働いてるんだよ」
すこし離れた鉄橋が電車の重みに怒声を上げ、空の高みでジェットがごうごうと吠え、そして水辺の葦たちは無言で風に揺れている。河原には勝手の知れた日常が戻っていた。
***
「海の底ならまだいいけど、遠い星に飛ばされてね」
肘をついて半身を起こしたが、そこで動けなくなる。後頭部がやたら重く、ほかの部分はスカスカだ。僕は脳みそのそこかしこに酸素がゆきわたるまで、じっとしていた。
「その星で生き物に情けをかけたおかげで、いったんは地球に戻れたんだけど、ひとっ子ひとりいなかった。そうしてこの河原で過ごしているうちに、今度は荒れ野に連れて行かれた」
「そう、そんなつらい夢をみてたんだ」
土手の草地に、僕に並んでひざを抱えているその声の主は、少年のようでもあり、成熟した女のようにも見え、そして野生の揺るぎなさをそなえて、つまり母性を除くすべてを持ち合わせていた。
「つらかったのかどうか、よくわからない。ただずっと、誰かを探していた気がする」
「誰かって誰?」
「遠い星に飛ばされるときに、離ればなれになったひとらしい。僕はそのひとにもういちど会って、ちゃんと気持ちを伝えないといけなかった。でもそれが誰なのか」
僕はそこで、相手の顔をまじまじと見た。
「あなたは僕と知り合いなのかな」
「そうだよ」と相手は膝にのせた本をぱたんと閉じて微笑んだ。「私とあなたは知り合い。ほんのすこしまえに、ここで出会ったばかりだけど」
「では僕が探していたひとは、あなたとは違うのか」
「それは、どうだか」と相手は両手を空に伸ばして言った。「ねえ、あなたも伸びをして、大あくびをするといいよ。脳みそにもっと酸素を吸わせた方が、ね」
***
土手の緩い斜面を斜めに登りながら、僕はかたわらの相手に話しかけた。
「ここで写真を撮ろうと思ったんだ。しばらく撮っていないので、なにもないところで、頭を空っぽにしようと」
「それなら、もうじゅうぶんに、空っぽになったでしょ」相手は悪戯っぽく笑った。
「いや、もともとなにもないんだよ。撮ったあとはいろいろ考えるけど、撮るまえはなにもない。ただ漠然とした情景が浮かんで、それをつかもうとするだけだよ」
「つまり、あなたが撮る写真に意味はない?」
「ないよ。きちんと意味を込めるひともいるけど、僕はそうじゃない」
「そこがブンガクと違うところだね。でももしそうなら、何故あなたは撮るんだろう」
「どうしてだろう。忘れてしまうのが怖いのかもしれない」
僕は斜面のとちゅうで立ち止まって、足もとの草むらを見つめた。
「妙だな、ここにシロツメクサがたくさん咲いてる。来たときはただの雑草の茂みだったのに」
「昼寝をしているあいだに咲いたんだよ、きっと」
僕はその答えが気に入った。
「そうだね。または、なにかほかのことに気をとられていたのかも」
「忘れた方がいいモノやコトも多いし」と、相手も頷いた。
「いや、撮りたくなるようなもの、撮らずにいられないもののことは、ちゃんと覚えているよ。でもね」と僕は、次の言葉をゆっくり探した。
「ほんとうに熱中する対象、心惹かれるなにかと出会えれば、たぶん撮ることを忘れてしまう。そうしてそれを失ったら、もう涙しか出ない。なぜ撮らなかったのかとね」
「ふうん、そういうものなんだ」
相手はとつぜんに腕を伸ばし、短く切った爪で僕の目やにをこそげ落とした。僕はどぎまぎしながら、次にすることを決めた。
「このボタンを押せば」とカメラを示す。「記憶の複製をひとつ、つくることができる。それを”機械の中の幽霊”と呼ぶひともいるけど」
「やたら哲学ぶるのは、好きじゃないな」
「うん。だから写真にたいした意味はない。それであなたとの記憶をいちまい、複製にとらせてもらっても、いいかな」
そのひとは「いいよ」と言って、草むらに腰をおろし、僕がカメラを構える前にこうつぶやいた。
「シロツメクサの花言葉、知ってる?」
「いや」
「それはね、”私を忘れないで”だよ」
河原には夕暮れの湿り気がまじった風が吹き寄せていた。
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制作協力:クニトウマユミ
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魔女とヒキガエルの精は、ふたりで水晶玉を覗き込んでいた。
「なんとまあ、この男をあの河原に置いてきたとな」
「ごめんなさい、でも私にはどうすることもできなかった。いったんは引き離したんだけど、なにかのきっかけで揺り戻しが入って」
「きっかけは言葉じゃろう。お前はこの男の記憶に、なにか都合のいい希望を与えたんじゃわ」
「そういえば、カシミールがどうしたとか、言っていたわ」
「ああ、あれか。あれは彷徨いの果てに希望をみつけるという、まあ単純な歌じゃわな。深い意味はなくとも勇壮に響くものじゃから、弱い人間ほどノセられやすい。やれやれ」
「それで、この男はどうなるの」
「魔女のあタシにも、どうにもならぬわ。人間には”人生をもういちどやり直せるなら”という願望がある。この男のように、心が特定の時間軸に戻ろうとするのは、その願望の現れじゃよ」
「だから私に、男の思い出話に触れるな、と言っていたのね」
「まあ仕方が無かろう、そもそもこういう人間に、記憶を複製する道具など与えてはいかんのじゃ。やり直し願望を強めるだけじゃからな」
「過去の時空に縛られるというのは、つまり」ヒキガエルの精は帽子のひもを強く握りしめた。
「複製した記憶に入り込んで抜け出せない状態ね。そこから出す方法はないの?」
「誰を送り込んでも、たぶんおなじことを繰り返すだけじゃろう。この男に自己愛を捨てさせるのは、そう容易くはなさそうじゃて」
「自己愛って?」
「写真のことじゃよ」
魔女はそういって、水晶玉にそっと布を被せた。
***
to the memory of a brave little bird.
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