Days As Usual(4)

docomo L-03C / Pentax 3X Optical Zoom 6.3-18.9mm F3.1-5.6 / 15.7mm F5.1 1/40sec. ISO200 / (C) Keita NAKAYAMA
つくづく、写真は偶然の産物だと思う。
偶々うまく撮れることもあれば、その逆も(これはしょっちゅう)ある。
仕事の撮影なら、あらゆる事態を予測してリスクを排除すべきだが、趣味なら偶然性を折り込んで楽しむのが健全だろう。次の角を曲がった先でなにに出くわすか。スナップの面白さはそれに尽きるといえば、そうだった。
角を曲がったとたんに、顔面を電柱にぶっつけることもある。そういう不幸な偶然で生まれた失敗写真は、ぜんぶカメラのせいにして構わない。お前の液晶モニタを眺めていたからこうなったんだ、どうしてくれる。
まあキカイを罵っても気分は晴れないのだが、罵り返されることもないので安心感はある。
問題は、自分の身の丈をを超えてウマく撮れてしまった写真だ。これは始末が悪い。なぜって、他の写真と並べて置いたときに違和感がある。なんか、ヒトサマの写真が紛れ込んだみたいな、それを自作と偽って並べちゃってるみたいで後ろめたい。そんな気分になることって、ありませんか。
思うに、これが写真の怖さである。撮ったのではなく「撮れてしまう」ことがままあるのだ。絵画なんかなら「描けてしまう」ことはぜったいないのに、道具に頼る表現にはそれがある。
偶然を必然として、堂々と受け入れるひとなら、それをモチベーションにつなげることができるだろうけど、僕はそういうのが苦手なので、いつも居心地が悪い。
でもね、考えてみれば、いつどんなときだって、被写体は常に撮り手よりも位が高いのだ。ついでにいえばカメラもおなじで、撮り手はただちょこちょこっと操作してボタンを押すだけ。それでなにかしら写せてしまうのだから、楽なものである。麗しい被写体や、便利な道具をつくってくれるひとたちには、ちゃんと感謝しないといけないな。
だから僕にできることは、身の丈以上の写真が撮れてしまったときに、それを穴があくほど見つめて、なぜ撮れたか考えること。必死で頭をひねれば、次におなじようなチャンスに出逢ったときにも、おなじような写真が撮れるかもしれない。
いや、無いアタマは無理にひねるより、電柱にぶっつけた方が上達が早い? ごもっとも。
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