Three Fables(1)
ヒキガエルの卵を避けて歩いていたら、魔女が現れてこう言った。
「お前さまはどうやら善い心の持ち主らしい。褒美に望む場所につれていってやるわえ」
「それなら」と僕は風向きの変わらぬうちに希望を告げた。
「なんと、地球に戻りたいとな。あそこはもう誰も棲んじゃいないし、戻ってもすぐに死んじまうよ」
「どうせ僕らは皆、この星では長く生きられません。だからこの身体をあの土に還してやりたいんです。たとえ汚れた土であっても、そこからなにか芽吹くかもしれない」
「ふうん、まあいいじゃろ。ついでじゃから、あタシもしばらくつき合ってやるとしよう」
魔女はそう言って杖をふった。
***
移民星で伝え聞く話とちがって、地球にはまだ緑と青い空が残っていた。
「ほんとうにこの河原でよかったのかえ。お前さまが生まれた家とか、通った学校とか、何処にも見あたらんが」
「ええ、ここでいいんですよ。ちょっと土手沿いを歩きたいんですが、あなたはもう戻らないといけません」
「あタシなら平気だよ、この星の空気をどんだけ吸い込んでも」
僕と魔女はつれだって河原の路を歩きはじめた。
土手沿いを上流に向かって辿ると、そこに何本かの橋がかかっている。青いペンキの水道橋と電車の鉄橋、そして古びた灰色の車道橋。なんのひとつも変わらないように思えて、でもここに響いているのはさわさわという音だけだった。
「葦の穂先が触れあう音って、じつは今日はじめて聴いたんです。いぜんにここを歩いたときは、静かな日でも聞こえなかった」
「それは人間が要らぬ知恵をまわして、妙な道具ばかりつくるからさ。要らない音が集まる場所では、恋人同士も声を張り上げるだろ」
「けっきょく、そういう音が積もりに積もって、ここを要らない星にしちまった。そうじゃないかえ」
「手っ厳しいですね。でも、道具に洗練を求めるひともいたんですよ。あなたのその杖のように」
「おや、あタシのこれは只の杖だよ。曲がりっぷりの好いトネリコを見つけて、宿られた樹からひっぺがして乾かして芯をくり抜いて、そこに一角獣の角を仕込んだだけのものさ」
「……じゅうぶん無駄な凝り方をしてると思いますけど。魔法に杖は要らないんですか」
「魔法なんて無いんだよ。じっさい、あタシら魔女のやることときたら、人間にたわいのない夢を観させるだけさね」
「それって催眠術? それなら僕の身体は、まだあの移民星にあるんだ」
「まあそういうこと、この風景はお前さまの心の風景だわ。でもね」魔女はこちらを横目で睨んで言った。
「たった今その河に入って水に潜れば、息ができずに溺れるよ。それとおんなじように、この星の汚れた空気は、じんわりとお前さまの身体を蝕む。ここにいるなら、肝に銘じておくことだ」
「つまり仮想現実の粒子と電磁波が肉体に作用するわけですね、なるほど」僕は意味不明の理屈で納得した。
***
車道橋の手前に来たところで僕は小走りをし、そうしてある場所で立ち止まった。
「ええ、この緑の斜面です。あのときとまるで変わっていない。でもこれは僕の記憶だから、当たり前ですね」
「うんにゃ、足りない部分はあタシが補間してやってるんだわ。古服に継ぎ当てをする、あの要領さ」
「どこが継ぎ当てか、ぜんぜん分からないなあ」僕は鞄からカメラを取り出した。
「いぜんにこれで撮った写真があれば、分かるかもしれない。見たものぜんぶを覚えてるひとも、まあいないでしょうけど」
「記憶を道具に任せて、それで安心して忘れちまうんじゃろ」
「いえ、人間は忘れることで心の平穏を保つんですよ。思い出をみんな機械に入れてしまえば、よぶんな感傷に浸らずにすみますからね」
「機械のなかの記憶かえ。それは幽霊みたいなもんじゃわな」
「ギルバート・ライルの”ゴーストインザマシーン”ですね、人間の心と身体はつながっているという。でも写真のゴーストは別の意味だし、道具に撮り手の心は宿らないと思うな」
「宿る宿らぬは心がけしだいと違うのかい」
「ああ、そうかもしれません。ところで僕の身体が今、ここと離れたところにあるのなら、今ここにいる僕も幽霊ですか」
「あタシがみたところ」魔女は眼を細めて言った。
「あの星で見かけたときは幽霊みたいだった。この星に戻ったら生き返った。つまりお前さまは、もうずっと心のなかでしか息をしていないということさ」
河面が午後の光を反射し、そのなかで何かが跳ねた。だが魚もそれを補食する鳥も、ここにはもういない。たぶん補間された映像だろう。できたら、もっと別のものを見せてほしいのだが。
「……じつは僕がこの土手を歩いたそのしばらくあとに、移民星への移住がはじまったんです。それで親しいひとがべつの星に棲むことになって」
魔女はとつぜん眉根に皺をよせ、僕の言葉をさえぎって言った。
「つまりこの河原は、お前さまのとっておきの思い出の場所というわけだわな。そんなら満足がいくまでここで過ごすといいよ。あタシはもう戻るから」
「満足がいくまで、ですか。それって幾日でも居られるってことですか。それとも何時間、何分?」
「心の時間は夢の時間なんだよ。お前さまの身体が星で寝返りを打つあいだに、ここでは半日経っているかもしれないし、半年か、ことによったら百万年過ぎているかもしれない」
「すべてはお前さまの心の有り様、汚れた空気を吸ってまで生きようとする気持ちがあるかないか、それで決まるんじゃわ」
僕は土手の斜面をゆっくりと降りて緑の床に腰を下ろした。一陣の風が吹き付け、後ろからの声が聞こえた。
「ここでじゅうぶんに過ごしてまだ息をしているようなら、ヒキガエルの精に迎えにくるよう言付けておくよ」
振り向くと、そこには背の高い雑草が揺れているだけだった。
***
制作協力:クニトウマユミ
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