Three Fables(2)
土手に寝そべって風に吹かれていると、迎えがやって来た。
「思ったよりも元気そうね。でもそろそろ退屈してるでしょう」
「そうでもないけど」僕は頭の後ろで組んだ手をほどかず、空を見上げたまま返事をした。
「日にちの経過がまるでわからないのには参るな。なにしろ太陽が空に貼り付いて動かない。だから夜は来ないし雨も降らない」
「それは仕方がないのよ」隣に腰を下ろした相手が言った。「あなたの記憶にあるこの空間の時間軸が、とても狭いものだから」
「ああ、たぶんそうだと思ったよ」
じっさい、ここに来てどれくらい経ったのか、僕にはぜんぜんわからなかった。変化がないのは環境だけではない。僕じしんもひとつの想念にとらわれるだけで、おなじ波長で揺れる河原の葦のように、考えることを止めてしまっていた。
思うに、あの「半日か、半年か、ことによったら百万年」という魔女の言葉は、そういう状態を指していた。思考することを放棄した人間にとっては、一瞬も永遠もおなじことなのだ。
***
「それで、気持ちの整理はついたの? 戻るなら私が手筈をとるけど」
「君はヒキガエルの精だっけ」僕はそこでようやく首を曲げて、相手の姿をしっかり視野におさめた。風変わりな帽子を被った娘が膝をかかえ、河面を眩しそうにみつめている。
「いや、戻る気はないよ」僕は草をつかんで上体を引き起こし、手のひらをぱんぱんとはたいた。
「魔女にもさいしょにそういった。僕はここで土に還るってね」
「でもあなたの肉体は、あちらの星に置き去りなのよ」
「それならそれで構わない。ここでずっとこうしていれば、魂はこの草や土と同化できるだろう。それでじゅうぶんだ」
「それって、人間によくある自殺願望ってやつ?」
「いや、象がよくやるみたいに、死に場所を選んでるだけだよ」
娘はちょこんと肩をすくめた。
「まあ仕方ないわね、どうぞご自由に。私も無理に連れ戻せとはいわれてないし、それに」と、彼女は帽子の紐で空気をかき回し、深く息を吸い込んで言った。
「この匂い。すこし塩分を含んだ水の匂いが、すごく懐かしかったわ」
「ここは海に近いからね……君もこの星の生まれなのか。もともとは、その、なんというか、カエルだったのかい」
「ええ、でもヒキガエルではなくて、もっとちいさい種族。身体はこれくらい」
娘は私に向き直り、親指と薬指で輪っかをつくってみせた。そのリング越しにきらりと輝く瞳を、僕はどこかで見た気がした。
***
「私は荒れ地に生まれたの。乾いた土と空だけがあって、あとはほとんどなにもない不毛の土地。でも、なにもないというのは、たんに認識の問題ね」
「どういうことかな」
「つまり、ある存在を取り巻く物質を、どう捉えるかということ。私の場合でいえば、乾いた土と空に恵まれていたという言い方もできるわけ。そうじゃなくて?」
「それで生きていくことができるのなら、まあそうだろう」
彼女はゆっくりと立ち上がり、斜面を踵で踏みしめ、僕の正面に歩みでた。
「ちょっと見せてあげる、私がどんな環境で育ったか。ほら、こんな場所よ」
娘がくるりとまわると、帽子のひもがぐるりと円を描き、それを中心に目の前の風景が一変した。緑が黄土色に、草地が荒れ地に、湿り気を帯びた空気はからからに乾燥し、そして娘の身体は熱気で宙に浮いているように見えた。
「すごいな。君も人間の視覚を操れるのか」
「定型パターンでそっくり入れ替えるだけなら、そんなにむつかしくないわ。魔女が河原でやったみたいな、ランダムな情報補間はとても無理だけど」
娘はしゃがんで、指先で地面にそっと触れる。土を慈しんでいるようで、どこか怖がっているようにも見えた。
「これは乾期の地面ね。雨期には表面がすっかり水に覆われて、それが引くといちめんにひびが入る。地球の皮膚が捲れて剥がれるようで、とても怖ろしくて美しい眺めよ」
「雨が降らないあいだ、君たちはどうするんだ。水なしで生きられるのかい」
「それはぜんぜん楽ではないけれど、でもこうして」娘の指先に力がこもり、硬い土の表層がすこしだけ削り取られる。
「地面に穴をあければ、昼間の陽差しからは身を護れるわ。そして夜に穴から這い出て、遠くの山から降りてくる霧を待つの。霧の水分は眼球で結露するから、雫が自然に流れ落ちて口に入るわけ」
「ずいぶんと気の長い話だね」
「我ら蛙は涙を干して渇きを癒す」娘はそこで立ち上がり、まっすぐにこちらを見た。
「今のあなたもおんなじでしょう」
***
「べつだん泣いてはいないし、喉も渇いてない」ふたつ目の話はほんとうだった。こちらに来てから渇きや餓えを覚えたことはない。そのことも時間の経過をあいまいにしていたのだが、娘の追求は容赦がなかった。
「嘘おっしゃいな。あの河原は、あなたの涙の匂いでいっぱいだったわ。タンパク質とリン酸塩を含んだ弱アルカリ性の液体の匂い。私が風景を入れ替えたのは、あなたの頬を乾かすためよ」
「ひとを泣き虫のように言わないでくれ」僕は無意識のうちに頬を手をやり、そこに涙の痕跡をさぐっていた。
「メランコリアは人間に特有の性質だよ。昔の楽士には、ことさらにそういう歌をつくるひともいた。ダウランドもこう歌っている。”すべての希望が消えされば、怖れと嘆きと苦痛が日々の希望となる”とね」
「あなたは泣き虫じゃなくて、泣き虫の子供ね。自分の姿を鏡に映そうとせず、感傷が尊いものだと言い張っている」娘はあきれた様子で言った。
「でも涙を流すのは、べつに恥ずかしいことじゃない。私も故郷にいたときに、山から降りてくる霧は誰かの涙だと教わったわ」
「それで雨期が来るたびに、どこか遠くでおおぜいのひとが泣いているのだと思うと、すごく哀しかった。人間のように泣いたりはできないけど」
目玉に水を溜めて遠い山なみを眺め、もの想いに沈むカエル。僕は彼女の話に聴き入っていた。
「でも荒れ地をすっかり覆うほどの涙も、いつかどこかに消えていく。流れて、蒸発して、滲み込んでね。だからあなたのように記憶を引きずって、そのなかに閉じこもるひとは、カシミールにはいないんだわ」
「ちょっと待って、今なんと言ったんだい」
「カシミールのこと? それは夜霧のみなもと、高い山をいただく山麓。人間たちはそう呼んでいたわ」
その地名でスイッチが入り、僕の頭のなかにひとかたまりの叙情詩が浮かんだ。
”……それはすべてが砂で覆われた見わたす限りの荒れ野……私はどこにいたのか、それを知りたい……怖れの海峡を渡り、あなたをそこに連れてゆこう……あの遥かなる理想郷へと”
***
制作協力:クニトウマユミ
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